今日、フジロックだって知らなかった。
Twitterを開いたら、フジロックが開催されることを批判し、数百回リツイートされている投稿を目にして気が付きました。
罵る言葉にぎょっとしましたが、おかげさまでYouTubeでサニーデイ・サービスの演奏を見られて嬉しかった。
そんなTweetを見たのがきっかけだったのか。
思ったこと。
最近、苦手なひと、増えてないですか?
ぶっそうな質問ですが。
「近頃、もやもやしてるな」って思ったら、そうなのかもしれない。
現実世界で会う友達や職場の人に限らず、SNSで見かける誰かとか。
基本的には、「嫌いな人は、嫌いなままでいい、離れよう」というのが私の持論で、大前提です。
誰かの言動に心を乱されたり、いらいらしたり、「苦手かも」と思ってしまった時の話。
そんな時こそ、「自分を見る」ということが大切だと気が付きました。
なぜかというと、人生に苦手な人が登場すると、苦手なはずなのに、あんがいその人のことをずっと考えちゃうものですよね。
それって、自分から目を離してる証拠です。
人には相性があるから、「なんとなく好き」もあれば「なんとなく苦手」も、もちろんある。
相性とは関係なく、誰かのことを苦手になってしまった時は、必ず理由があります。
あまりにも小さなことで、大人の自分は、忘れているかもしれない。
でも、ほんとは小さなことじゃない。
よくよく考えたら、その人の態度に傷ついた、怒った、悲しかった。
ですよね。
その感情の主語は、「わたし」です。
私が、どうだったのかを思い出して、共感する。
傷つけられたから、嫌いなんですよ。
がっかりさせられたから、苦手になったんですよ。
その人を見るんじゃなくて、自分を見てね。
それで、もし、そんな風に苦手な人が増えてきたり、人間関係がパターン化されていると気が付いた時は、自分の考え方に、「癖」があることを疑ってみるといいです。
だって、いらない癖は自分を固くしばるだけです。
心理学では、「認知のゆがみ」ともいいますが、本腰入れて、自分のことを観察する。
たとえば、過去の私の話をすると。
苦手だなって思った何人かの人。
そんなに関わりがないし、そんなに強く嫌いじゃないし、生活には支障はないけど、なんだかもやっとする。
で。
その人を見るのをやめて、自分を見る。
そうすると、「あの時、ほんとうは〇〇って言ってほしかったな」とか、「なんで、頼んでたのに、〇〇をしてくれなかったんだろう」とかっていう、自分の想いがあって。
その時の私は、悲しかったんですよね。
それで、何に気が付いたかというと。
私は、人に「期待」してたんです。
期待して、自分の想い通りの言葉や態度をもらえなくて、勝手にがっかりしてたんですよね。
(ちなみに、この、「期待」は関係性が近いほど、無意識にやっちゃいますね。家族とか、恋人とか。)
その、「考え方の癖」は慣れ親しんでいたもので、無意識にずっと私にくっついていました。
でも、もういらない。
期待して良いことって、あまりないです。
なので、いらない癖は手放しました。
どうやって手放すかというと、「手放す」って決めるだけです。
人間だから、忘れて同じことをしてしまうけど、また思い出して、手放す。
(※ちなみに、同じことをしてしまうのは、慣れ親しんでいたからこそです。ホメオスタシスともいえます。)
私は私の大切なものを大切にして(日本語へん?)、その想いに沿って行動したらいい。
それは、きたない言葉は使わないとか、話しかけられたら顔を上げるとか、挨拶はきちんとするとか。
ちなみに、自分と合わない人(もの・場所)に出会った時に唱えるおまじないがあって。
それは、「私はそれを選んでいない」と宣言することです。
これは、加茂谷真紀さんの本、「愛のエネルギー家事」で教えてもらったことです。
「私はそれを選んでいない」と宣言すると、自分と、その対処物(人)との間にきれいな境界線ができる。
この考え方は、最近よく見かける「分断」とはもちろん異なるもので、自分のことも相手のことも尊重する態度だと思っています。
その人がそのままでいることを、ゆるす、というか。
以上です。心をこめて。
もうすぐ終わる8月をたのしもう。
たのしむのは、ひとりでもできるよ。
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